第6章 分散された認知 choiyaki
問題が発生したときには仕事の負荷を減らしたり正しい判断をするために、周囲に他者がいることが重要で、その際に動作が大切なコミュニケーションの一つとなる。
大きい操縦の機器は、大きい動作を生み、大きい動作は相手に伝わる。コミュニケーションが生まれる。
飛行機の操縦などミスが大きな事故につながるなら、なおさら周囲の他者は重要。
チームメンバーにコミュニケーションと行動の同期が必要。大型の機器は、それが意図せず行われる。
エラーに利点がないか。否。それは間違った考え方。
エラーが共有されることによって、エラーを起こした人とそれに関わる人以外の、それを聞いている人の訓練にもなる。
人が定期的に入れ替わる場合、こんな風な全体の教育は大事。
一見非効率に見えることでも、テクノロジーの何が本質的で何が無関係で何が有害なのか明らかでないなら、変えることには慎重に。そこには、進化のような自然に淘汰されたから効率性がもたらされた可能性があるから。
重要なのは、コミュニケーション。それが奪われていないか?奪われることで問題は起きないか?
人的な側面が組織の機能を円滑に保っている。システムのエラーを絶妙に補ってくれていたり。
人間は世界の、外界があって機能する。知的行動の大部分は、自分(心的プロセス)と外界(物や世界の制約)の相互作用の結果生じる。また、行動は、他者との協同というプロセスを通じて行われる。
そういう外界との相互に作用することを、すべてあらかじめ考慮する、というのは困難。
話を単純化するために経済学では合理的な人間を仮定したりするが、実はタスクを難しくしてる可能性がある。
机上の空論じゃないけど、ある一部分を切り出して机上に乗せることでかえって難しくなることもある。文脈によって言葉の解釈は決まるのに、文脈を取り除くといろんな意味にとることができるようになってしまうように。
要するに、やってみたらわかる。やってみてはじめてわかることもあれば、あらかじめ考えてたけどやってみたら実は重要じゃなかった、みたいなこともある。
外界がある、世界はただ存在するだけで、われわれの代わりにものごとを覚えておいてくれる。存在するものを見れば形はわかる。形を覚えておく必要はない。
机上で考えるときには、そういう世界のデータ貯蔵庫の利用ができないし。
事前のプランがいらないわけではない。が、事前のプランに固執するべきではない。やってみてわかったら柔軟に対応していく必要がある。
現実の世界では、不可能なことは不可能。すぐわかる。それをすべてシュミレートするのは、考えるべき要素が膨大になり、むずい。
口承伝承の時代、語り部が物語を語ることで情報を伝えてた。一字一句正確に、ではなく、物語の大枠と味のある語り口で。
人間が記憶するのは、それでいい。完璧な正確さはいらない。が、テクノロジーで人間の記憶もろさを補おうとすると、正確さを中心に据えちゃう。
大事なのは、世界の大枠を捉えて些細なことは覚えなくても問題ないようにすること。
本章において、重要なのは、以下2点か。
人間は外界との相互作用により機能する。どんな相互作用によるかは、やってみないとわからない。
すべてを正確に考慮に入れるのは困難で、そうする必要性もない。見えない、認識できない部分に効率性があり、削ぎ落としてはいけなかったりするから。
コミュニケーションの共有が、タスクを円滑に同期させる。意識的なもの、無意識的なものに限らず。
熟達度に関係なく、エラーとその対応の情報が全体に共有されることで、エラーとその対応者だけでなく全員の訓練にもなる。
そこから、本章の結論。テクノロジーによって、人間中心の活動を作り出すこと、環境とタスクの側を人間に適合させることであったはず。しかし、テクノロジーの何らかの側面が、ほとんど重要でない正確さと精密さを要求しているがために、人間がそちらに適合しようとしていまいか。